21世紀からの進化論

「人間は猿から進化したのではない」という一種のスローガン的な文句で、ダーウィンの進化論否定説がまことしやかに流布されているのですが、インターネット上で検索できる情報に進化論否定が決定的だろうと思わせるまともな論説は何一つないと思われます。
私自身は直感的に人間の進化というものに対しては視座が全然ちがっていて、そもそも人間が何かしら特殊な動物であるとか最高の知能を備えた生物であるとか、そこらあたりからして何か人間の思い上がりみたいなものを感じてしまうので、正直「進化」とか人間と動物を区別するその視座自体に疑問をもっている派です。

何故進化論否定なのか?

科学的な根拠の列挙や論説がどのようなものであれ、進化論の否定はキリスト教の教義にあります。正直言ってガンジス川でおかしな修行をしているインド人にとっては進化論否定とかどうでもいいだろうし、エスキモーだってそんなことをまともに考えないでしょう。進化論にヒステリックな反応を示すのはキリスト教文化でありキリスト教文化の根付いた地域の人たちです。
私がヨーロッパに住んでいて感じたのはこの「猿から進化した人間」という物語に対して科学的にではなくむしろ生理的に嫌悪感を抱いている人々が思いの外多かったということです。ダーウィンの進化論はその内容以前にヨーロッパではいわゆる悪意をもったキリスト教としての教義(Doctrine)というものに対して正しい科学という人間の理性の夜明け的なヨーロッパの歴史とともに、地動説のコペルニクス、宗教革命のカルバン、教育革命のルソー、そういった人々が次々とそれまでのマジョリティーに対抗して全く新しい真実を築き上げてきたというヨーロッパの偉大な歴史という物語(Geschichte)とキリスト教的な博愛の物語のあいだでかなり激しい摩擦が今も尚あるということなのではなかろうかと思います。日本人的な感覚ではなかなかわかりかねるところではありますが、キリスト教文化とはおそらくそういうものなのではないだろうかと思います。
「あなたは神を信じますか?」といういまや冗談としか思えない文言がありますが、ヨーロッパの人々は神の存在を多少なりとも信じています。もちろんその感覚は日本人がもっている宗教的な感覚と同様でいわゆる全能の神様を信じきっているわけではありません。文化に根付いた博愛主義の感覚というかそういった根深いものなのです。食事のときお祈りをする友人も多くいました。
その神、つまり何かしらのSomething Great的な存在が人間をつくったといった感覚も同時に根付いているのです。私が思うに正しい(善良な)キリスト教的な考え方では、動物のように野蛮ではなく理性をもって自分自身を制御し自分の利を他人に施し自分を犠牲にすることで他者が救われ他者を救うことで自分自身も救われる的なものの考え方が「完全に他の動物とは違う」という根強い考え方(idee)が存在するのです。例えば仏教でも同様の(似たような)考え方があったとしても犬や猫と人間を比較して圧倒的に違うというような考えは浮かんで来ないでしょう。ヨーロッパ人が犬と人間を完全に区別するのとは反対に仏教では(いや、日本的な宗教の考え方では)犬も家族の一員であり村の中でみんなと一緒に暮らしている。。。的な感覚です。そこに進化論の否定というヒステリックな考えは浮かんで来ないのです。ヨーロッパではそうはいかないようです。彼らは他の動物とは決定的乃至圧倒的に違う何かが人間に宿り、むしろ人間は動物ではないのではないかとすら本気で思っている節があるのです。
進化論が科学的根拠に根ざしていないというキリスト教側の主張(またはキリスト教側に強く影響をうけた主張)というのは、彼らが指摘しているダーウィンの科学的な矛盾点などと同様にたいして説得力のないものがほとんどです。科学が真に科学でありあえるという状態は文節的であるという「とある区切り」の中での根拠と結論なわけで、進化や人間の存在というものをかけた永遠や無限に近い概念を扱うには「科学」はちょっとアプローチの仕方が違うというか、理解の仕方をそもそも間違っているというような感じがします。

しかし、いくら証拠を集め、どんなにたくさんのデータをもって理屈をつけ、理論を構築してみても、初めの思いつきや仮説が間違っていれば、その思いつきや仮説は永遠に間違いなのです。まさに、「進化論」もその一つです。

この言い草には多少悪意を感じます。

個別証明と全体理論

建築構造がそうであるように、ある力学的な力の方向は、またある別の逆方向のちからとともに均衡し大きな構造物を支えるというような仕組みが実際にあります。とてつもなく広いドームを石づくりでなしとげたり、巨大な橋を石で積み上げたりして数千年もその構造を維持しているなんていうものがたくさんあります。科学的な考え方もそういった現実的且つ実践的な理論で成立していると思われています。しかしおそろしいのは、その反対に現実的且つ実践的な理論を積み上げることができなければ「サムシング・グレイト」だという結論です。

遺伝子工学の世界的権威の村上和雄氏(筑波大名誉教授)も、真っ向から進化論を否定する一人です。一つの遺伝子に組み込まれている膨大な量の情報を研究しているうちに、「進化論はありえない」という結論に到達しました。神と言いうるような「サムシング・グレイトの存在」(なにか超偉大な知性の存在)により創造されたことを認めなければ、遺伝子の説明は不可能であるというわけです。

何が「サムシング・グレイト」だと親戚のおじさんが鼻くそをほじりながら言ってそうな感じです。少なくとも私も自分の息子がこのような話をはじめると何が「サムシング・グレイトだ」と言いたくなります。
つまりひらたくいうと「私の現在の知識と経験ではあんまりよくわからない」といったことだと思います。個別の小さな証明の積み重ねと関連が大きな構造をもって発展してゆくというようなことが度々あります。アインシュタインの相対性理論は論文が発表されて以来、数々の実験と検証の中で正しいことが証明されてきた理論です。SFのような考え方が現実味を増し、現在に至ってはほぼほぼ正しさを証明できているという状況です。(とはいえ、実際の相対性理論は科学というよりも哲学にちかいものがあってものの考え方とアプローチの方法の転換にちかいものがあります。)ニュートンが物理学へのアプローチが根本的に間違っていたように遺伝子というものへのアプローチの方法が現在のような数量的な乃至情報としての解析というアプローチ自体が間違っているのかもしれません。遺伝、生物、文化といった側面を科学的に捉えようとすると途端に真っ暗闇ということになりかねませんが、宗教的、哲学的、詩的に捉えるとたいへんおもしろいアプローチの方法ができたりするものです。

佐々木満男・・・進化論は真っ赤な嘘?!

以下抜粋です。

Source::http://www.christiantoday.co.jp/articles/6057/20110218/news.htm
日本ではダーウィンの思いついた「進化論」が絶対的な科学的真理としてまかり通っています。実は、「進化論は証拠がないので証明できない」と主張する科学者が世界中に激増しているのです。
最近では、日本のノーベル物理学賞受賞者・素粒子研究の世界的権威の益川敏英氏(京大名誉教授)やノーベル生理・医学賞受賞候補者・iPS細胞研究の世界的権威の山中伸弥氏(京大教授)がいます。
「『ヒトは猿から進化したのか、それとも神が造ったのか』と聞かれれば、日本人はなんとなく『猿から進化』という方を信じるが、それはなんの根拠もない」と、二人の対談で語っています。
かつては、「棲み分け理論」で世界的に有名な進化論学者であった文化勲章受章者・今西錦司氏(京大名誉教授)は、研究すればするほど進化論の矛盾に気づいて研究を断念して、自ら「科学者廃業宣言」を新聞に発表しました。「進化論は学問にあらず」と言いたかったのでしょう。良心的な科学者であっただけに、間違った学問を教えてきた者としての責任を取ったものと思われます。
アメリカではハーバード大学の教授を含むトップクラスの進化論学者たちが、次々に進化論の研究をやめて、他の学問に転向しています。こんなことは学問の世界ではあまりないことです。
遺伝子工学の世界的権威の村上和雄氏(筑波大名誉教授)も、真っ向から進化論を否定する一人です。一つの遺伝子に組み込まれている膨大な量の情報を研究しているうちに、「進化論はありえない」という結論に到達しました。神と言いうるような「サムシング・グレイトの存在」(なにか超偉大な知性の存在)により創造されたことを認めなければ、遺伝子の説明は不可能であるというわけです。人間は「科学的真理」だと言われるといとも簡単に信じてしまいます。「科学」とは、人の思いつきや単なる仮説を、外部的な証拠やデータによって、恒久的な法則や普遍的な真理にしようとする学問です。しかし、いくら証拠を集め、どんなにたくさんのデータをもって理屈をつけ、理論を構築してみても、初めの思いつきや仮説が間違っていれば、その思いつきや仮説は永遠に間違いなのです。まさに、「進化論」もその一つです。
「一匹のアメーバのような単細胞生物がこの地球上に突然生まれて、何億年か何十億年の間に突然変異を繰り返して進化を続け、人間になったのだ」。こう思いつたダーウィンは、証拠を集めているうちにそれらしき理屈が成り立ってきました。それは絵を描いて説明できるため、一般の人々には非常にわかりやすく、あっという間に「科学的真理」として世界中に受け入れられてしまいました。後世の進化論者たちは、これでもかこれでもかと証拠を集めて、理論付けをしてきたのです。最近になって、「進化論」にはさまざまな無理、矛盾、捏造が発見され、今やこれは「真っ赤な嘘だ」として世界中から葬り去られようとしています。
突然変異の起きる確率論、化石の年代測定法、地層学、地球物理学、海洋学、天文学、生物学、生物化学、遺伝子工学、骨相学、その他のあらゆる学問分野において、「進化論にはそれを裏付ける証拠がない」として退けられているのです。
ダーウィンの「種の起源」発表後150年以上も経つのに、決定的な証拠が何一つ発見されないのでは、「進化論」は果して学問と言えるのでしょうか。
逆に、旧約聖書(創世記)に書かれているように、人間を含めたあらゆる生物や無生物は、それぞれ初めから全知全能の神がデザインして創造したものであるという科学としての研究(創造科学)が発展しつつあります。ダーウィンの「進化論」に対して、これを聖書の「創造論」と言います。私はぜひとも、この「創造論」を日本に普及していきたいと思っている者の一人です。
刑事事件によくあることですが、ある程度の証拠に基づいて「犯人」として疑われたら最後、警察、マスコミ等が、よってたかって「真犯人」に仕立て上げてしまいます。こんな証拠もある、あんな証言もあると、次々に新しい証拠や証言を集めてつなぎ合わせると、ゆるぎない「真犯人」ができあがってしまうのです。裁判官も人間ですから、たくさんの証拠や証言によって判断して、「有罪判決」を出してしまうことがあります。しかし、本人が本当に無実なら、どんな証拠や証言を並べ立てても、たとえ最高裁の有罪判決が確定しても、「無実」という真理は絶対に変わることはないのです。科学の分野では、「科学的真理」なるものが、毎日のように作り出されていますが、「虚偽」はいくら理屈を付けても虚偽です。その典型的な例が、「進化論」なのです。
「進化論」の根底は、「無神論」です。なんだかよくわからないが、生命は突然発生したのだ。「弱肉強食」の歴史をたどって、強い種類が生き残ってきた。「強いものが弱いものを犠牲にして生きる。これが人生だ。死んだらどうなるかは何もわからない」。
「進化論」の価値観には、生きる意味はなく、生きる希望もありません。
「創造論」の価値観には、いつか説明しますが、「人々がお互いに愛し合って生きる」というすばらしい意味と、「神とともに永遠に生きていける」というとてつもない希望があります。「進化論」を絶対的真理として教え込まれている日本人に「生きる意味」と「生きる希望」がないのは、当然のことなのです。「創造論」を信じるならば、「生きるすばらしい意味」と「生きるとてつもない希望」を持つことができるのです。

佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。

クリスチャン、国際弁護士、東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒(法学修士:LLM)、インターナショナルVIPクラブ(東京大学)顧問、ラブ・クリエーション(創造科学普及運動)会長、「どんなことにもくよくよするな!」著者、専門:宇宙開発法、国際資源開発法、国際資金運用法、アブラハムささき法律事務所(弁護士佐々木満男)

「進化論」の価値観には、生きる意味はなく、生きる希望もありません。

ここらあたりの理屈というか感覚がよくわからなくなるときがあります。希望なくしちゃうんですか?

感覚的に猿から人間に進化するということを信じられるか?

私が小学生の頃、恐竜は爬虫類でした。しかし現在に至って恐竜はむしろ鳥類に近く体毛があったのではないかと言われています。実際に化石からは毛の色まで判別できないのですが、少なくとも我々が幼い頃に想像していた(想像させられていた)灰色やカーキ色の肌がむき出しの変温動物というものではないかもしれないという諸説が21世紀になって浮上しました。科学のアプローチはそんなものです。化石の発見などでこれまでの諸説がひっくり返ることはよくあることです。

札幌の円山動物園に「おふゆ」というオラウータンの子供がいました。飼育係のおじさんがおふゆを連れて檻の外で自由に遊ばせていたのです。たまたま事情があって私が円山動物園に一週間ほど通うことになった際にどうしてだかおふゆに好かれてしまったことがあります。彼がどうして私を好いてくれたのかわかりません。
私が動物園に訪れるとどこからかおふゆがやってきて、その後から飼育員のおっさんがおふゆを追いかけてきます。おふゆは私に抱きついて、私によじ登りその後は離れようとしません。子供とはいえオラウータンの握力は破壊的です。(おそらく人間の50kgから70kgの握力があると思います。)飼育員のおっさんが私から離そうと引っ張りますが離れようとしないので、しかたなくおふゆを肩車のような、抱っこのような、ただぶら下がっているような、おんぶしているような。。よくわからない格好のまま私は歩いておりました。
彼は笑わないしおしゃべりもしませんが、引きはそうとすると敵意を示します。飽きるまで私にくっついていればそれでよいようです。正直おふゆは子供であることもあって非常にかわいいかったです。目は優しく体はやわらかく(とくにお腹)まるで人間です。自分で抱きついているぶん重いは重いのですが人間の子供よりも楽です。
このオランウータンは、チンパンジーと同様我々人間に遺伝子的にかなり近いところにいる動物であると同時に人間の3歳時とおなじぐらいの知能をもっています。正直、頭がいいです。私の鉛筆をもって紙に落書きをしていたし(たぶん私の真似をしたんだと思います。)ジュースも飲むし、話しかけるとちょっと笑います。感覚的には一緒に暮らしても問題ない感じがしました。お互いに理解できる領域です。(もちろん本気の喧嘩になったら負けそうな気がします。)
おふゆと私の間にある時間的な進化、または神の存在を意識させる圧倒的な違い、なんでもいいのですが、そういう客観的な「差異」があるとしたらそれは何なのか?
これは、人間が猿から進化したのではないという科学的な否定ではなくむしろ「人間は猿から進化してはいけない」という神経症的なアプローチに聞こえなくないと私は個人的に思っています。人間は猿から進化したような気がするという感覚が獣姦であったり変態であったりというモラル的に許されないといったヒステリックな感覚が根底にあるような気がしてならないわけです。
結果的には私は猿から進化しててもしてなくてもどっちでもいいです。
おふゆはかわいいですよ。

黄禍論


映画「猿の惑星」や「キングコング」など、現在の日本人には信じられないかもしれませんが、猿は黄色人種の比喩です。第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけてのヨーロッパは東側に猿が住んでいると本気で思っていた時代があります。遡ればアメリカの黒人奴隷という制度は、当時、白人という「人間」に対して猿という別の動物がいるという認識だったのです。今も尚白人と黒人では圧倒的な知能の差があるとかないとかKKKあたりでは本気でそういったアイディアを持っている方々がたくさんいるわけです。
当時利権を激しく争っていた欧米の人々(つまり白人)は、それ以外の有色人種を一種の下等な人間(猿)だと半ば本気で信じていたのです。イギリスのウィンストン・チャーチルの有名な言葉に「猿を相手に紳士のゲームを続ける」というものがあります。

 相手がルールを守らないのに、こちらがルールを守り続けることを「猿を相手に紳士のゲームを続ける」と言う。紳士は猿にならない。猿が紳士になるの待つのだ。猿が噛み付いてきたらどうするのか? そりゃあ君「ハンティング」というゲームに変わるだけのことだよ。

これは対ドイツ戦において彼がいったことですが、これは人間相手に対するヨーロッパの比喩、特に自分たち白人が特別だという感覚に近いものがあります。
太平洋戦争時には日本との戦争においてアメリカ合衆国もかなりの脅威を感じたのか、小さな猿が銃を担ぎ、ジャングルの木を渡り歩いているイラストや巨大な猿が街を破壊しているといった漫評が数多く書かれました。白人の軍人からは正にそのように見えたのでしょう。これらがキングコングや猿の惑星といった彼らの妄想のきっかけになったようです。
そこらの猿が巨大化し人間の及ばない力で街を破壊しはじめるといったシナリオです。彼らにとっての戦争は正に狩りであり脅威的とはいえハントすべき対象だったのでしょう。
このようなイメージが人間の根底にある場合、猿から人間に進化した、あるいはこの当時でいえば猿と人間が同種の霊長類であるといった考え方には感覚的に至らなかったのかもしれません。猿が進化し人間の生活を脅かす(または部外者(エイリアン)が人々の生活を脅かす)といった強いイメージは欧米人の根底にあるように思えます。進化論否定が進化論から遺伝子レベルのでの解析が説明できないとか進化論でいわれる自然選択が時間軸で説明できないといった理屈はこれらの彼らにある根本的なイメージから発せられた屁理屈に近いものを(私自身は)感じるわけです。科学的な分析と証明が何に動機づけられているかは、その理論が実際に証明できたとかできないとかいう以前に非常に大切なことだと思っています。学問は決して裁判ではないのですから。


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