理論と分節

様々な側面で理屈というものに遭遇するわけですが、たいていの場合その理屈がとても退屈でありとてもじゃないけど興味がわく対象ではないということがあって、実際に目にする論説というもののほとんどが信じるに値しない、というのが私の見解です。とはいってもその短い文脈の中でというお話であってその論説はある文脈のほんの一部であるという認識のもと、氷山の一角でその全体を単に想像するというのは著者に対しても失礼なのではないかという自分の美学的な部分もあります。
ですから、とてつもなく退屈であるというのは本当であったとしてもそのような短文の中で何かしらを発言するということになると論説という何かしらの背景や下地を元に理論を積み上げていくという行為ではなく、正に古事記や日本書紀に見れるような短歌・ポエムの領域に入ってくると私は思っています。短いセンテンスの中で語られるその「中身」というものは実体はポエムなのではないかと思っています。非常に短いそのセンテンスから様々なものを想像し拡張してゆかなければならないのでならないのです。
しかしその理屈や屁理屈というものがポエムではなく、何かしらの説得力をもった論理にもとづいているとしたら、それはどういうものかというと、いわゆる理論というものの性質によるところが大きいと思います。理論の性質がそうである以上、それは理論の体裁をとってはいるものの理論としては成立しないものになってしまうのではないかという懸念。

原因と結果

よく聞かれるのが「因果応報」という原因があって結果が返ってくるというその機能そのもののことです。関数は与えるパラメータを原因として返り値という結果をもたらします。当然「理論」で成立しているので、原因となるパラメータの値を変えると結果としての返り値の値も変化します。それが関数というものです。そしてまた関数には条件があります。例えば与えるパラメータにゼロや無限大を与えてはいけないという条件があります。有限という条件のもとではゼロや無限大を原因として与えても正しい結果が得られないというものです。原因の因子が無限大のパターンをもっている場合は結果の返り値も無限大のパターンをもつことは容易に想像ができるし、結果そうなる可能性が高い。しかしだとしてもそれが解として正しいかどうか、あるいは妥当な解として有効活用できるのかというとそうではないからです。原因と結果をもたらすその媒体としての関数は何らの条件をもつのです。